木がいっぱい、葉っぱもいっぱい

もりもり訳したい

4月ですね。新年度や新学期が始まり、新鮮な気分の方も多いと思います。私は実質的にはあまり関係ありませんが、雰囲気はよく伝わってくるので、自分もこれを機に心機一転がんばろうという気にはなりますね。

こんなブログをどんな人が見てくれているのかわかりませんが、月1ぐらいで活動報告と今後の予定というか、どんなことをやり終えて、今はどんなことやっていますよーみたいなのと、それについての所感みたいなのを、書ける範囲で(公開情報になる前は守秘義務があるので具体的なことはあんまり書けないのですが)書こうかな、と思いました。

 

まずは活動報告。先月26日、これは何度も申し上げましたが、『気候変動に立ちむかう子どもたち』が太田出版より出ました。全国の書店、通販サイトでの販売のほか、Kindle版もあります。引き続きよろしくお願いいたします。

これは実は、いや実はというかみんな知ってるか、商業での翻訳デビュー作なんですけれども、1冊目からこういう本を担当させていただいて本当によかったと思っています。この本のポイントは以前(2つ前ぐらい)の記事に書いたのでそっちを参照してほしいのですが、本当に広く読まれてほしい本となっています。

あと、これは本当に個人的なことですが、20代のうちにデビューできたのも本当によかったです。先日、『タコの心身問題』や『Think CIVILITY(シンク・シビリティ) 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である』で有名な翻訳家の夏目大さんがフリーランスになって25周年ということでしたが、夏目さんが独立されたときの年齢と今の私の年齢がたぶん同じです。私もこれから翻訳を25年以上続けたいなあと思うし、夏目さんのような量を出したいです。精進します。

 

次は現在どんなことをやっているのかの報告です。

幸いなことに、2冊目のお話をいただいています。こちらは教養書っていうのかな? 専門家が一般向けに書いたもので、1冊目とはカラーがだいぶ違い、もっと硬派な感じです。それでもとっても面白いし、今こそ読まれるべきだな〜という感じのものです。ただスケジュール的に今年中には出ないと思います。

それとは別に、Kindle限定で1タイトル、新星の個人版元から出してもらえる予定です。大手が(採算などの関係で)出しにくいけれども、確実に読まれるべき面白いものをKindleでやろう、というコンセプトのもとに最近作られたところです。私は今回ドイツ文学の古典の新訳をやります。原稿はあがっているのでもうすぐだと思います。出たらまたお知らせします。

ちょっと話が脱線しますが、このほかにもやりたいと思う古典新訳の企画がいくつかあります。古典新訳って有名どころじゃないとまず大手では出ないイメージだし、古典を訳すのは大御所の研究者と相場が決まっているので(そのお約束については個人的に疑問に思うところもあり、いつか集中的に論じたいですが)、まだ具体的な話は何もないのですが、Kindle限定でもいいのでどこかで出してもらえたらうれしいなー(チラッチラッ)と考えています。まあKindleだったら、完全に自分だけで出すという手もなくはないですし(編集など全部自分でやらなきゃいけないので大変そうですが)、使い方によっては斬新なことや面白いことがいろいろできるんじゃないかと思うので、KindleKindleでどう利用していくかみたいなこともじっくり考えたほうがいいかもしれません。

あと現在、某ウェブメディアの記事の翻訳もやらせていただいています。これもいろいろなことが翻訳の過程で知れて楽しい。やればやるほど(語学力以外の部分でも)知識がどんどんついていくことが翻訳業の醍醐味の1つだと思います。極端な話、そういうのが好きで翻訳業を志したみたいなところもあります。もちろん、自分が学ぶだけではなく、それをしっかり訳文の形でアウトプットしていく努力も忘れませんし、それも楽しいですけど。

という感じで、現在は以上のような作業をやって日々を過ごしています。

しかし――もうストレートに言ってしまいましょう――それでもまだ現在、もりもり訳せる余裕があります! 一般向けであればフィクションから教養書までどんなジャンルでも可能、また、ドイツ文学・思想史研究の専門教育を受けており、ドイツの大学院での研究の経験もあるので、人文学分野ならばゴリゴリの専門書でもできます。連絡先はホームページに記載しています。なにとぞよろしくお願いしたく……! 

 

特に何もしてない

今日は特に何もしなかった。

午前中に図書館に行き、資料を借りてきた。

図書館から帰ってからしばらく翻訳をした。

夕方に犬の散歩に行った。

最近は、本を読む時間を寝る前に無理やり作っている。

昨日までは、トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義』高里ひろ訳、みすず書房、2019年を読んでいた。

そして今は、バルタザール・グラシアン『人生の旅人たち エル・クリティコン』東谷穎人訳、白水社、2016年を読んでいる。

2段組で本文だけで700ページ以上ある。どのくらいで読み終わるかわからない。

 

あ、『気候変動に立ちむかう子どもたち』、Kindle版も出ました。引き続きよろしくお願いします。

 

『気候変動に立ちむかう子どもたち 世界の若者60人の作文集』が出ます

アクシャート・ラーティ編『気候変動に立ちむかう子どもたち 世界の若者60人の作文集』(太田出版)の翻訳を担当いたしました。

3月26日から順次店頭に並ぶようです。また、HonyaClub.comやe-honなどのネット書店でもご注文いただけます。HonyaClub.comとe-honは、全国のさまざまな書店で店頭受取を指定でき、街の本屋さんの応援にもなります。よろしくお願いいたします。(もちろん、アマゾンや楽天ブックスでも購入可能です)

www.ohtabooks.com

 

簡単に内容というか、本書のポイントをご紹介します。

気候変動は地球規模の、切迫した問題であるということは近年いろいろなところで言われています。それでも、対策は遅々として進んでいません。もはや個人の努力では根本的な解決にはならない。システム全体を変えなければならない。そうでないと、自分たちが暮らす未来がなくなってしまう。そういう危機感から、若い世代が立ち上がっています。その筆頭がグレタ・トゥーンベリで、彼女が始めた「フライデーズ・フォー・フューチャー」の学校ストライキは一大ムーブメントになりました。トゥーンベリは国連の会合などにも招かれて、各国のリーダーたちに向かって強い言葉で行動を求めました。

……と、ここまではおそらく誰でも知っている話でしょう。日本でも連日報道されていました。問題は、「ここまで」しか報道されることが少ないために、「ここまで」しか知らない人が非常に多いことです。

そのため、批判にすらなっていない非難(?)が横行しています。いくつか例を挙げるなら、
「グレタ・トゥーンベリだけが一人、祭り上げられて目立っているだけでしょ」
「運動は先進国の金持ちの偽善。発展途上国は経済発展が大事なんだから気候変動対策など求めている人は誰もいないよ」
「学校ストライキやデモなどのパフォーマンスしかやっておらず、科学的に実効性のある対策を何もやっていないじゃん」

これらに対してここで細かく反駁することはしません。本書を読んでいただければ、上の批判(とすらいえないもの)は全て当たらないことがわかるからです。

簡単に言うなら、この本は「グレタ・トゥーンベリ以外」にフォーカスしたものです。グレタ・トゥーンベリの果たした役割はもちろん大きい。しかし地球規模の気候変動に立ちむかう運動は、グレタ・トゥーンベリただ一人に集約されないような、多面的で多層的なものです。それをまず知ってもらうための本だと思います。

寄稿している若者たちと同じ世代にはもちろんのこと、もっと上の世代にもおすすめしたい一冊です。

 

 

私に翻訳の機会を与えてくださり、作業の進行中もさまざまなアドバイスやお力添えをくださった関係者の皆様に心から感謝申し上げます。

春じゃん

いつの間にか桜が咲いて、すっかり春ですね。

犬の散歩でいつもと違う公園まで行ってきた。

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きれいだね。写真はあまりうまくないね。ミラーレス一眼のオートモードで撮っているのだけど、なんか暗くなってしまう。オートモードでやっている理由は、マニュアルでのやり方がよくわからないからです。

 

 

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これはハナモモ。

 

この季節は近場を散歩するのも楽しくて、とても良いですね。

 

『フィールズ・グッド・マン』を観た

今日は『フィールズ・グッド・マン』を新宿のシネマカリテで観た。

feelsgoodmanfilm.jp

 

コミックのキャラクター、カエルのペペがネットミームとして広がり、しまいには人種差別主義者のシンボルとして利用されてしまう経緯と、作者や仲間たちがなんとかキャラクターを奪還しようとする様子を描いたドキュメンタリー。

 

欧米の4chanはあまり見ないのだけど、このキャラクターはネット上で見たことがあった。こんな歴史があったとは知らなかった。

 

ちょっとネタバレをすると、最終的にペペの作者は著作権の方面で、このキャラをシンボルに使ったオルト・ライトのメディアを訴えることになる。著作権の問題はもちろんあるのだが、その訴えが認められたからといって、ヘイトのシンボルとして定着してしまったイメージを覆せるわけではない。ミームは次々と生まれていき、人々のイメージも増幅していく。一旦広まってしまったものを止める根本的な方法が存在しないというのが、とても難しいところだ。

 

キャラクター自体が日本であまり知られていないこともあり、よく考えずに映画を観ただけではふーんアメリカではこんなことがあるの大変ね、で終わってしまうかもしれない。

しかしちょっと考えてみると、日本でも、ネット上のコミュニケーションはもちろん、リアルな日常会話にまでミームが入り込んでいることに気づく。

ちょっと思い出してみただけでもたくさん例が挙げられる。最近のものだと『鬼滅の刃』の鱗滝さんが炭治郎をビンタする「判断が遅い!」のシーンとか、「チーズ牛丼の特盛を温玉つきでお願いします」のやつとか、「自己防衛おじさん」とか、「幸せならOKです」とか、ちょっと古いけど「働いたら負けかなと思ってる」とか……。私も、いわゆる「コピペ」のような感じで抵抗や批判意識なくミームをコミュニケーションの中で使ってしまったことがあると思う。なんとなく流行っているから、みんな使っているからここでこれを使ったらウケるだろう、伝わりやすいだろうという思考だ。

もちろん、ミームは良くないからじゃあ使うのをやめましょう、というのは不可能だし、そんな単純な話でもない。定義はさまざまあるだろうが、ミームの本来の意味は、脳から脳へ複製されて伝わる社会的・文化的な情報、のようだ。つまり広い意味では文化的な営みは全てミームで動いている、あるいはもっと踏み込むなら、ミーム的なものが全くなかったとしたら文化が発展することも新しいものが作られることもない。パロディやオマージュという形になって新たな価値ある作品が生まれることもある。風刺や皮肉というのは、ミーム的な土台というか、これはある種のミームですよという共通理解があるところで初めてその効果を発揮する。ミーム的なものを上手く使いこなせることが教養や機知とみなされる場合もある(たとえば日常の中でシェイクスピアの有名な一節「To be, or not to be」を使うなども広義のミームだろう)。

ネット上のミームだって、複製の速度や伝播の範囲の程度の差こそあれ、古くからあるミームとその根幹は変わらないはずだ。だから当然ネットが悪くてリアルなら良いという話でもない。この映画を観て考えても、じゃあどうすればいいのか、という処方箋は見つからない。注意しようという心がけができるぐらいだ。しかし安易にネット上のミームに取り込まれないという意識がみんなに少しあるだけでも違うのではないかな、とも思う。

ネット上の、急速に拡散したミームと向き合うときは、まず何よりも、作者や元の発言をした人間がいることを忘れないようにしたい。それに、自分はいわゆる「悪用」しているわけではなくても、自分がミームに加担することでその可能性を少しでも高めてしまうかもしれないということも肝に銘じておかなければならない(ペペのミームも「無害」なものから始まった。だから当初、作者は何とも思っていなかったようだが……)。

コミュニケーション、本当に気をつけていかなければならないと自戒した。

 

公開されている映画館は少ないが、これは多くの人が観るべき映画だと感じた。

横浜に行ったり、鬼滅の映画を観たりした

今日は元同僚に会いに横浜に行った。

天気が良かったので、みなとみらいのあたりを歩くのがとても楽しかった。海がきれいだった。

横浜駅にいつの間にか新しい駅ビルができており、中に映画館も入っていて驚いた。

あと、桜木町からみなとみらいに向けてロープウェイが作られていた。まだできていないらしいけど。

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横浜駅の上の映画館で鬼滅の刃の映画を観た。年末に観たので、2回目だった。

1回目を観た後に原作も読んでいたが、2回目も楽しめた。1回目はストーリーを追うのに結構リソースが割かれていて、音楽とか映像とかの細かい部分にあまり集中できなかったのだが、今回はいろいろ細かいところに着目できた。煉獄さんの戦闘シーン、とても映像がかっこいい。

実は私、猗窩座が鬼滅のキャラの中で一番好きだ。1回目、何も知らずに映画を観たときにも、猗窩座は何かが他の敵キャラと根本的に違うと感じた。原作を後の方まで読んでなるほど思ったとおりだー! となった。

ただ、私が猗窩座が特にいいなあと思っているのは、猗窩座の過去が壮絶だからではないし、まァ悪役にもいろいろ事情があるよネという単純な話ではない。過去よりも、鬼になってからの彼のスタンスが、とても素晴らしいし、他の誰よりも正しいと思う。

猗窩座については、いつか暇なときにがっつり論じようかな。

 

映画館で予告編やってて知ったのだけど、年末にテレビでやってた宮崎吾朗監督の新作『アーヤと魔女』、劇場でもやるらしい。あのかっこいい音楽と軽快なCGを劇場の音質と大画面で楽しめるというので、一度観たのだけどとても期待が高まっている。年末にテレビでやってたのを見逃した人ももう見た人も、ぜひ行ってほしい。宮崎吾朗、私はとても高く評価しているからね。お父さんと路線が違うだけで、彼は彼なりに素晴らしいものを作っている。前も書いたと思うけど、彼はアニメよりもCG作品の方が得意なようなので、CGで天下を取って世界のGOROになってほしい。

 

日記、ただ意味のわからないことを書き散らすだけになっている。まあいいか。

吉田博展に行った

東京都美術館でやってる吉田博展に行ってきた。

吉田博、名前は知っていたが作品は数点しか見たことがなく、今日の展覧会にも特に吉田博だからというわけではなく、お、こんなのやってるんだ、という感じでふらっと行ったのだけど、とても良かった。版画がメインだった。

吉田の版画は、そのほとんどの題材を日本に取りながらも、浮世絵的な平板な色使いではなく、まるで西洋の水彩画のような色彩だ。それに、視点や配置、つまり見せ方が西洋絵画のそれなのだ。そうした意味では、従来の日本の技術と西洋の技法を組み合わせることで新しい境地を開拓した、と言ってもいいだろう。

もともと吉田は油彩画も描いていたが、黒田清輝やその門下の白馬会の、フランス印象派に大いに影響を受けた作風をよしとしなかったそうだ。実際吉田が最初に渡った西洋の国は、当時の画壇で当たり前だったフランスではなく、アメリカだった。どちらが良いという話ではもちろんないが、当時主流だった流れから敢えて外れようとする反骨精神のようなものも、独特の作風の誕生に寄与したに違いない。

あの夏目漱石も吉田に注目していた。『三四郎』の中で美禰子と三四郎が絵画展に行き、絵の前で談義するところがあるが、そこで出てくるヴェネツィアを描いた作品は吉田の作品を指しているそうだ。作品を見ると、漱石が吉田を気に入るのもわかる気がする。

……とまあ、自分へのメモもかねてありきたりなことを書いてみた。

私はあまり絵に詳しくないので、ろくな感想を語れないことが書いてみて改めてわかった。芸術作品の感想を語るのにはやはり一定の勉強が必要だ。とにかく、今日見た作品群について言えば、色がとても鮮やかで多様だった。版画でここまで刷れるのか、と感動しきりだった。あれだけのものを仕上げるには、彫師も摺師もかなりのレベルを要求されただろう。

近代化以後の日本の絵画の歴史をあまり知らなかったので、これを機にいろいろ見てみようと思った。

たまには日記らしい日記を書いてみた。