木がいっぱい、葉っぱもいっぱい

『フィールズ・グッド・マン』を観た

今日は『フィールズ・グッド・マン』を新宿のシネマカリテで観た。

feelsgoodmanfilm.jp

 

コミックのキャラクター、カエルのペペがネットミームとして広がり、しまいには人種差別主義者のシンボルとして利用されてしまう経緯と、作者や仲間たちがなんとかキャラクターを奪還しようとする様子を描いたドキュメンタリー。

 

欧米の4chanはあまり見ないのだけど、このキャラクターはネット上で見たことがあった。こんな歴史があったとは知らなかった。

 

ちょっとネタバレをすると、最終的にペペの作者は著作権の方面で、このキャラをシンボルに使ったオルト・ライトのメディアを訴えることになる。著作権の問題はもちろんあるのだが、その訴えが認められたからといって、ヘイトのシンボルとして定着してしまったイメージを覆せるわけではない。ミームは次々と生まれていき、人々のイメージも増幅していく。一旦広まってしまったものを止める根本的な方法が存在しないというのが、とても難しいところだ。

 

キャラクター自体が日本であまり知られていないこともあり、よく考えずに映画を観ただけではふーんアメリカではこんなことがあるの大変ね、で終わってしまうかもしれない。

しかしちょっと考えてみると、日本でも、ネット上のコミュニケーションはもちろん、リアルな日常会話にまでミームが入り込んでいることに気づく。

ちょっと思い出してみただけでもたくさん例が挙げられる。最近のものだと『鬼滅の刃』の鱗滝さんが炭治郎をビンタする「判断が遅い!」のシーンとか、「チーズ牛丼の特盛を温玉つきでお願いします」のやつとか、「自己防衛おじさん」とか、「幸せならOKです」とか、ちょっと古いけど「働いたら負けかなと思ってる」とか……。私も、いわゆる「コピペ」のような感じで抵抗や批判意識なくミームをコミュニケーションの中で使ってしまったことがあると思う。なんとなく流行っているから、みんな使っているからここでこれを使ったらウケるだろう、伝わりやすいだろうという思考だ。

もちろん、ミームは良くないからじゃあ使うのをやめましょう、というのは不可能だし、そんな単純な話でもない。定義はさまざまあるだろうが、ミームの本来の意味は、脳から脳へ複製されて伝わる社会的・文化的な情報、のようだ。つまり広い意味では文化的な営みは全てミームで動いている、あるいはもっと踏み込むなら、ミーム的なものが全くなかったとしたら文化が発展することも新しいものが作られることもない。パロディやオマージュという形になって新たな価値ある作品が生まれることもある。風刺や皮肉というのは、ミーム的な土台というか、これはある種のミームですよという共通理解があるところで初めてその効果を発揮する。ミーム的なものを上手く使いこなせることが教養や機知とみなされる場合もある(たとえば日常の中でシェイクスピアの有名な一節「To be, or not to be」を使うなども広義のミームだろう)。

ネット上のミームだって、複製の速度や伝播の範囲の程度の差こそあれ、古くからあるミームとその根幹は変わらないはずだ。だから当然ネットが悪くてリアルなら良いという話でもない。この映画を観て考えても、じゃあどうすればいいのか、という処方箋は見つからない。注意しようという心がけができるぐらいだ。しかし安易にネット上のミームに取り込まれないという意識がみんなに少しあるだけでも違うのではないかな、とも思う。

ネット上の、急速に拡散したミームと向き合うときは、まず何よりも、作者や元の発言をした人間がいることを忘れないようにしたい。それに、自分はいわゆる「悪用」しているわけではなくても、自分がミームに加担することでその可能性を少しでも高めてしまうかもしれないということも肝に銘じておかなければならない(ペペのミームも「無害」なものから始まった。だから当初、作者は何とも思っていなかったようだが……)。

コミュニケーション、本当に気をつけていかなければならないと自戒した。

 

公開されている映画館は少ないが、これは多くの人が観るべき映画だと感じた。