木がいっぱい、葉っぱもいっぱい

1年

神奈川県某所に来てから1年が経った。事情あってドイツから帰ってきて、これまた事情あって(普通に翻訳の傍らやっていた別の仕事ですが)神奈川県某所に来たのだけど、今年の4月ぐらいに神奈川県某所にいなければならない事情が消滅したので、何でお前わざわざそこに住んでるの? 状態になっている。

 

まあでも、そこそこ便利だし、市立図書館の蔵書が本当に充実しているし、中華料理やしらす丼がおいしい地帯があるし、お散歩のしがいがあるしで、気に入ってはいる。

 

このブログも放置して1年経つ(もっとだよ)わけだが、どうしようかね。正直、消そうかなとも思ったんだけど、何も言わずに消すのもアレなので、ちょっとまた書いてみた。

特に自分で発信することが、ない。お散歩記録とかまたやってもいいんだけど、家の近くだと普通に住んでる場所わかっちゃうからなあ。

 

あ、翻訳はドシドシやっています。ただ今の時点でお知らせできることはない。

商業の本を作るってのは、ただ原稿そろえれば終わりというわけではない。そこからいろいろな人の手を経て、何ヵ月もかかって完成形になり、書店に流通する。正直、訳した内容なんて忘れた頃にゲラが出てきたりするわけだ。翻訳者がいなければ訳文はできないのだから、自分の役割はとても重要だと自負しているし、名前が表紙などに載せてもらえるだけの働きをしていると正直自覚していて、とても誇らしくもあるけれども、全体のプロセスから見たら、私は翻訳を担当しただけ。その他の部分にはタッチする権限はない。

まあこんなことを書くまでもなく、大多数の人はそれくらいわかっていると思うけどね。おそらくこのブログを見ていて、「いつも忙しそうにしているのに訳していたやつはまだ出ないのか」といつも言ってくるあなた、そういうことなので、もう意味不明なことを言ってこないでください……。

年内に2つくらいお知らせできるかもしれませんが。

 

ブログを放置している間に訳書が出ていました。

めちゃくちゃ面白くてためになるので、まだの人はぜひどこかで読んでください。「真実はいつも一つ」と字義通り信じ込んでいる人、「この世のメインストリームな情報はすべてフェイクだ」と信じ込んでいる人、どちらの陣営にも何か得るものがあるんじゃないかと思います。

『情報革命400年』

 

あと、英語字幕を担当しました。

 

 

とりあえず、こんな感じで。またね。

 

些細なダメージに気づくということ

家の最寄りのスーパーが、今日行こうと思ったら閉まっており、中では何やら工事をしていた。完全に閉店してしまったのか、一時的な改装なのかはわからないが。

仕方がないので、2番目に家から近いスーパーに行かざるをえなかった。違うチェーンだが店の規模も価格帯も最寄りのスーパーとそこまで変わらない。けれども最寄りのスーパーは徒歩5分だったのに対してそこは徒歩20分くらいなので、今まではわざわざそっちに行く動機はなく、だいぶ前になかなか手に入らない銘柄のビールがその店だけで安売りになっているとかで、そのビールだけを買いに一回行ったことがあるだけだった。

そういうわけで、一度ビールを買いに行っただけのスーパーで今日はこの先一週間分の食料などを全部買わねばならなかったわけだが、これが意外と大変で、だいぶ疲れてしまった。

といっても、ただいつもとちょっと違うスーパーで買い物するだけのこと、そんなに騒ぐことか? と思うかもしれない。確かにそうだ。別に異国に行ったわけではない(私の場合は今ドイツにいるので、そもそもずっと異国なんだけど)し、スーパーごとに作法がまったく違うわけでもない。必要な商品をとって、レジでお金を払うだけだ。もう2年半ここに住んでるわけだから、場所がいつもと違っても何がどこにあるか見ればわかるし、なんなら店員に訊けばいい。実際、そんなに騒ぐことでもないのだ。別にヘトヘトになって帰ってきたというわけでもない(歩く距離はいつもより長かったが、それはまた別の話だ)。

だが、よくよく考えるといつのまにか精神的に疲れてしまっていることに気づいた、というわけである。たとえるなら、なにかデカい攻撃を受けてHPがガバっと減ったのではなく、じわじわとスリップダメージを食らっていた、という感じだ。しかも、ダメージの量自体は微々たるもので、その場では気づかない。長期にわたる蓄積を経て初めて、あれっこんなに食らってた!? となるタイプのやつだ。蓄積が大きくならない限り、意識して振り返らないと自分でもわからない。わざわざ振り返らなくてもいいことを掘り返すのはさすが私の性格の悪さといったところだが、どうしてダメージを食らったのか、意識して振り返ってみるとそれはそれで興味深い。

今日の場合は、まず、商品の並びがいつもと異なっていたということが挙げられる。いつものスーパーには入ってすぐのところに野菜売り場があり、その次に肉、魚、冷凍食品……という順番だったとしよう。今日行ったスーパーは、入ってすぐのところはお菓子売り場で、その隣にパンとシリアル類が置いてあった。野菜は一番奥、冷凍食品はピザ類と肉製品の棚が別になっている。次に、商品が微妙に違ったということもある。もちろん、売っているものの種類自体はそんなに違わない。ただ、ドイツの大手スーパーは日本以上に自社ブランド志向が強く、運営企業が違えば「まったく同じ商品」は手に入らない。たとえば、スーパーAではパック入りの肉の基本単位は500グラムだが、スーパーBは400グラム(もちろんその分、わずかに単価は安い)だったり、砂糖入り豆乳飲料の砂糖の含有量がほんのわずかに違ったり、野菜の平均的な大きさが違ったり(重さ単位なので値段はそんなに変わらない)する。本当に微妙なレベルだが、違うことは違うのである。

上でも述べたが、これはまったく重大なことではない。普通の人間なら、この程度のことには十分に対応可能だ。入ってすぐのところにお菓子売り場があるならそこでお菓子を選べば(あるいはスルーすれば)よいだけだし、奥に行けば野菜売り場はちゃんとあるのだから野菜がほしければ奥に行けばよいだけの話。パックの基本単位が違ってもそれが価格にちゃんと反映されているならよいではないか。それで足りないなら2つ買って冷凍しておけばよい。いちいちこんなことに文句をつけていたら何もできない。こんなことにも適応できないようじゃ生きていけない。その通りだ。

しかし、こうやって書き出してみるとわかるが、いつものスーパーで買い物をするときと比べて余計な脳のリソースが割かれていることもまた確かなのだ。野菜→肉→冷凍食品→シリアルという完成されたいつもの流れにおいては、意識の上ではもう何も考えなくても買い物ができる。これは憶測でしかないけど、もしMRIか何かでいつもの買い物のときの脳の動きを可視化してみたら、ほとんど動いてないんじゃないかと思う。それが、新しく行ってみたスーパーでは、まずお菓子とコーンフレークが置いてある。自分の意識の流れを分析して書き起こしてみると以下のようになる。「おや、お菓子売り場がこんなところにあるのか。そうだ、おやつの板チョコが切れてたから買わないとね。あと朝食のシリアルも。あれっ、このスーパーはチョコ味のシリアルに入ってるチョコの形が違うっぽいな。へ〜まあ味は変わらんだろ。さて次は、野菜だが……一番奥か」

普段だったら無の境地でできる買い物と比較して、序盤の段階だけでもこれだけの”余計な”思考が行われている! 

繰り返しになるが、これは本来なら殊更に”余計”だと騒ぐようなものではない。ほとんど無意識で行われているものでもあり、大声でこうした独り言を言っているわけでもないし、動作に表れているわけでもない。外見では何も変わらないだろうし、知らない人が見たら、私がこのスーパーに来たのは今日で2回目(日常の買い物としては初めて)ということなんて、わざわざ言わなければわからないだろう。現に、何のトラブルもなく私は買い物を終えて家に帰り、こうして怪文書をしたためている。適応できているのである。

それでも、ほんのわずかではあるが、余計なリソースを使いエネルギーを消費している。これもまた事実だ。(この程度のことを”余計”と言って避けていたらボケてしまうのでは? と思う方のために申し添えておこう。私は毎日仕事で未知の文章に触れるし、毎日のように勉強したり読書したりしているし、最近はこうやって長文の怪文書をまじめに書くなどしている。むしろそういう自分が重要だと思うことに最もよいパフォーマンスで集中したいがために、義務的な買い物のようなはっきり言って「しなければならないがどうでもいいこと」にはリソースを割きたくないのだ)

今日の出来事をこうして振り返ってみたとき、世間の人が(おそらく私も)抱えるいわゆる「コロナ疲れ」というのも、この手の些細なダメージの蓄積なのではないか、と思えてきた。もちろん、仕事が減ったりなくなったりしてしまい、生活に困窮するようになってしまった人もいるし、医療従事者など、自分を捨てて最前線に立たねばならない状況になってしまった人もおり、そういう人たちにとってはまったく些細なダメージではないのだが、それは「コロナ疲れ」というより「実害」なので、まったく異なる次元だと考えていいだろう(次元が違うのでどっちが苦しいなどという比較も不可能だ)。私がここで言っているのはそのような人たちではなく、「生活がそこまで根本的に変わったわけではないのになぜかストレスが溜まったり疲れたりしている人」のことだ。必要な装備さえあればリモートワークはできる。飲食店がある時刻で閉まってしまうのなら、時間を早めるか、テイクアウトにするか、宅配サービスを使うかわからないが、とにかく別の方法で食事にはありつける。そんなに親しくもなくて事務的な話をするだけの人であればわざわざ顔を合わせなくてもオンラインで要件を済ませられる。親しい人同士であってもリモート飲み会のようなことができる。家にいて暇な時間が増えた人は家でできる新しい気晴らしや趣味をいくらでも見つけられる。実際にみんなそのように、多少の我慢や工夫をして対応できている。それはもちろんよいことだし、そうしなければ生きていけない。けれどもその「多少の我慢や工夫」の裏には、私が今日慣れてないスーパーで感じたようなダメージがあるのではないか。それはひとつひとつは見えないほど小さいが、自分でも気づかないうちにスリップダメージ式に蓄積していって、気づいたときには塵が積もって山となっている。蓄積の過程が見えておらず、いきなり堆積の結果を認識するものだから、なんかよく原因はわからないけど心身の調子を崩してしまう、ということになるのではないか。

じゃあどうすればよいのかと言われても、私にはわからないけれど。ひとりひとり予防法や解決法は違うのかもしれないし、そもそもこういう状況にあってはどうしようもないのかもしれない。ただ、塵が積もって山となってから初めてその結果だけを認識して圧倒されてしまうより、塵が積もっていくプロセスの初期の段階から、プロセスそのものやその原因に気づいていたほうがよいのではないか、という気がする。ゴミ屋敷になってしまってからでは一人で片づけることはできないが、毎日掃除していれば一人でも部屋をきれいに保てるのと同じで、わずかな塵の段階なら簡単に解決法が見つかるかもしれないし、それ以上ダメージ蓄積しないようにする何らかの予防策をとれるかもしれない。どんな状況でも、「多少の我慢や工夫」が常に必要なのは間違いない。ただその裏では余計な精神的リソースを使い、わずかでもダメージを食らっている可能性があるということを、認識しておくだけでも違うのではないだろうか。

あなたは「経済を回している」か?――空転する表現

 

最近、「経済を回す」という表現をよく見る。この表現自体はもっと前から存在していたのかもしれないが、私の個人的な観測だと、目下社会にさまざまな影響を及ぼしている感染症が流行しだしたここ1年ちょっとの間に急速に広まった印象だ。今ではTwitterなどで目にしない日はないし、マスコミの執筆者や専門家、政治家などもこの表現を使っているのを目にする。

この表現は、もちろん抽象的な概念の比喩表現だ。経済という何か実体のある物が物理的に存在し、それを物理的に回転させるという意味ではない。その意味するところとしては使用者の間でもおそらくそんなに認識の違いはなく、総じて「消費活動を(目に見える形で積極的に)行う」「(大量に)金を使う」ことを指すようだ。そして、「回転」という概念には、単に金を一方的に使うことにとどまらず、「何らかの形でリターンがあるはずだ」という期待が含意されている。「金は天下の回りもの」という慣用句がある。少しずれるかもしれないが「風が吹くと桶屋が儲かる」という言い回しもある。家庭や初等段階の教育などでは、誰かが払ってくれたお金が私たちの給料となり、私たちが払うお金が誰かの給料になるのよ、と教えられる。なるほど、「金を使う」という行為は結局は自分に帰ってくるのだという共通理解があり、それが「回転」の概念と結びついているというのは、肌感覚的にはよくわかる。

こうした共通の伝統的な肌感覚に立脚した比喩表現として、「経済を回す」は便利で気の利いた言い回しとして人口に膾炙しているのだろう。

とまあ、通常はここで話が終わるのだが、もう少し踏み込んで考えてみるとおもしろい。思考実験として、もしも、この表現が比喩ではなかったとしたらどうだろう。つまり、経済という何か実体のある物が現実に存在し、それを物理的に回転させる、そんなイメージを現実に存在する事物に即してイラストか何かで表現するとしたら、みなさんは具体的にどういう状況を描きますか、ということだ。

この表現の具体的なイメージに関しては、現状では共通理解が存在しないか、そもそもみんな考えていないのだろうと推測される。Googleの画像検索で「経済を回す」と検索しても、それらしい図やイラストは出てこなかった。上述した通り、具体的なイメージなどなくても概念と肌感覚でなんとなく「意味」は共有できているので、語を使用する上では何の問題もない。

しかしそこを敢えて、現実に存在する具体的な事物に即してイメージを絵に描いてみてください、と言ったとしたら、どんな絵が描けるだろう。

「回す」と言っているのだから何か回転する(させる)構造になっている物が必要だ(つまりそれが「経済」の実体だ)。そして、「経済を回す」のは「私」なのだから、回転というプロセスに「私」が介在するのは必須だ……ちょっと考えてみただけでも、いろいろな例を思いつく。

チャップリンの『モダン・タイムス』のような大型の歯車仕掛けの機械についたハンドルを回している様子。流れるプールの中をみんなが同一の方向に進み、全体の水流が回転している様子。あるいはミニチュアの流れるプール(流しそうめんの装置みたいなの)を外からかき回している様子。エアロバイクのようなものを漕いでいる様子。そのエアロバイクが回転木馬のように配置されていて、漕ぐことで全体が回転する仕組みになっている様子。コーヒーミルのハンドルを回している様子。漫画や映画でよく奴隷や囚人が回している回転櫓を何人かがかりで回している様子。ハムスターの回し車に人が入って走っている様子、などなど……。

このように例はほとんど無限にある。しかしどの例でも、現実に使用されている「経済を回す」という表現に含意されていたはずの重要な側面が抜けて落ちているのがわかる。それは、自分が拠出した分だけのリターンがあるはずだ、という想定だ。

流れるプールや回転木馬だったら、回転することでまた同じ位置に戻ってくるという意味ではリターンなのかもしれない。しかし、水の中を歩いたりペダルを漕いだりしてロスをしたエネルギーがそのことで相殺されるわけではない。さらに回転させるためにはさらに労力を使わなくてはならないだけだ。そのほかの例だと、たとえばコーヒーミルだったら、回転することで挽き終わったコーヒー豆が生まれてくるかもしれないが、それはコーヒーミルを回すという行為そのものとは関係がない。挽かれたコーヒー豆がいくら出てこようが、コーヒー豆が腕力に変換されるわけではないので、コーヒーミルを回し続けるためには自分の腕力を無限に使い続けなければならない。

そもそも完全な永久機関は存在しないのだから、これは当たり前だ。何かを回転させることによって別の産物はできるかもしれないが、それは決して回転のためのエネルギーそのものに直接再変換されるものではない。

もちろん、実際の経済は単純ではない。私が使った100万円の一部が商品を売っている人の給料になり、その一部がその人の子どものおこづかいになり、その子どもがそのお金で私の訳書を買ってくれるかもしれない。100万円出したらポンと100万円戻ってくるはずだ、そんなふうに考えているほうが愚かだろう。サービスやインフラなど、目立たない恩恵が我々の消費から成り立っている、それはその通りだ。それなら構図としては、上で挙げたような例のどれかでもいいではないか、と思われるかもしれない。

しかしここまで考えた上で、今一度「経済を回す」という表現に立ち返ると、やはりその表現そのものや使われ方に大きな問題があることがわかる。

「経済を回す」という表現は「金を使う」という意味で使用されており、おそらく「金は天下の回りもの」というような感覚が背景にあるのだろうと、すでに指摘した。ここでもう一つ興味深いのは、「銀行に預金する」「保険に入る」といった行為は絶対に「経済を回す」とは表現されない点だ。むしろネットなどでは、「貯金なんかしないで経済を回せ」という意見をよく見かける。これは、実際の経済システムを考えるなら表現として間違っている。目に見える形で金を使うことだけが経済活動なのではない。私が使わずに銀行に預金した金は誰かほかの人や企業に貸しつけられるわけだし、私が払った保険の掛け金は誰か(あるいは自分)が必要になった際には他人の掛け金と合わせて何倍にもなって支払われる。庭に穴を掘って金を埋めておくだけでもそれは立派な経済活動だ、と言った経済学者がいたと思う。実際の経済システムに則って考えるならば、何をやっても、それこそ食べて寝るだけでも「経済を回している」ことになるはずなのだ。

しかし、「経済を回す」は「目に見える形で金を使う」という意味でしか使用されず、それ以外の行為は「経済を回していない」とみなされ、ともすれば一部の層からは糾弾されもする。となると、この表現には実際の経済システムとは違うところにある動機や願望が込められているに違いない。それが何か、はっきりとはわからないが、上で論じたように、この表現の具体的なイメージが頭に思い浮かんでいる人がほとんどいない(し、具体例を出してみても、どれも完全には合致しない)という事実を鑑みると、この表現の使用者たちはひょっとして、それこそ抽象的な永久機関をぼんやりと思い浮かべているのではないか? つまり、目に見える形で100万円使ったらいつか目に見える形で100万円が戻ってくるというような、ナイーブなリターンをどこかで期待しているのではないか? と思えてくる。もちろん、これを直接指摘したら、みんな「自分がそんな幼稚な経済観をもっているはずがないだろう!」と否定するに決まっている。ただし、「経済を回す」という表現をしてしまっている時点で、現実にはありえないナイーブな永久機関を想定していることになってしまうのではないだろうか。

友人があるとき、上でしたような議論を全部念頭に置いた上でのジョークとして「経済回ってないと思う、俺は金が手に入らないので」と言っていた。もしも「経済を回す」という表現を使っている人が、自分の使用している表現に忠実に思考して状況判断をするなら、まさに「経済回ってないと思う、俺は金が手に入らないので」という結論にいたらなければおかしいし、実際の経済システムに即して思考するのなら、「目立った形で金を使う」という意味に限定して「経済を回す」という表現をすることは不可能になるはずだ。

現実はそのどちらにもなっておらず、「経済を回す」という表現は今日もいろいろなところで無闇矢鱈に使われている。まるで存在しない永久機関の中で表現が空転しているようだ。

「俺は経済を回しているぞ」と誇らしげに夢の中で永久機関を回している間に、現実の私たちはさらに貧しくなっていくのだが。

エゴサ突撃型カスタマーサービス、やめたほうがいい

Twitterが流行ってからかれこれもう10年以上経つ。ライトにアプローチしやすく、フィードバックもすぐに得られるからだろうか、いまやほとんどの企業がTwitterに「公式アカウント」や「広報アカウント」なるものを持っているような印象を受ける。

企業のアカウントは大きく二つのタイプに分類できる。一つは、「このアカウントは問い合わせを受け付けるチャンネルではないので問い合わせには応じない」と明記していて、一方的に情報を垂れ流すだけのアカウント。もう一つは、ユーザーにからのリプライに応答したり、自社の製品やサービスに対するユーザーの反応をリツイートしたり、あるいは有名人と絡んだり、簡単に言えば、コミュニケーションを行うアカウントだ。

わざわざインフルエンサーという立場の人に金を払ってモニターになってもらう時代だ。消費者の「口コミ」「レビュー」が売上や知名度を左右することはよくあるのだろう。だから感想ツイートをリツイートしたり、それに応答したりという双方向的なアプローチは宣伝広報活動という意味では理にかなっているし、Twitterが元来そういうことをやるのに適したプラットフォームになっているのだから、それを利用しない手はないはずだ。しかも、リツイートしたりリプライを送ったりすること自体に金がかかるわけではない。タダで広告が一本打てるようなものだ。

そういう宣伝広報活動の場合、もちろん売上を少しでも伸ばすための宣伝広報活動なのだから、選択的にポジティブな口コミしか取り上げられないケースがほとんどだと思う。そしてポジティブな感想をつぶやいている人はその時点でその企業ないしは製品に一定の好感を持っているということだから、いきなりリツイートされたりリプライが飛んできたりしても特に悪い気はしないのだろうと推測される。

 

しかしここ数年、そのような単なる宣伝広報活動を目的としているわけではない企業アカウントがちらほら見られる。「カスタマーサービス」というアカウントだ。

宣伝広報活動と、カスタマーサービスはまったく異なる業務であることは自明だ。前者はとにかく商品やサービスを周知し、知らない人に対してうちはこんなにいいものを売っているんですよというアピールすることが目的。後者は、(大抵の場合)その会社の製品やサービスを使用して何か疑問点が生じたり、困った事態になった人の相談を受け、問題を解決することが目的だ。

つまり、宣伝広報活動と違って、カスタマーサービスは基本的に、(ほぼ全てのケースにおいてすでに製品やサービスを購入している)顧客の側で何か問い合わせ事項なり問題なりが発生し、顧客の側から問い合わせることによって初めて動く。本来そういうものだったはずだ。

だが、最近、こちらが能動的に問い合わせ等をしていないのに、虚空に向けてつぶやいているだけのこちらの些細な感想や愚痴をエゴサーチをして突撃してくる「カスタマーサービス」のTwitterアカウントが散見される。はっきり言って、とても不愉快だ。

先日、ソニーのワイヤレスヘッドフォンをMacBookと接続すると左右の音量バランスが偏り、モノラル出力っぽくなってしまうという現象が起こった。どちらも買ってから日が浅いし、ほかの機器を接続する際には両者とも正常に作動する。たぶん故障ではなくて、どこか設定がおかしいのだろう、まあそのうち原因がわかるさ(結局、Mac側の音量バランスの設定がなぜかずれていたと今わかった。そんな設定項目があることも知らなかったが)、という感じで、特に深刻にとらえていなかったが、何の気なしに、軽い愚痴のような感じでTwitterにつぶやいた(冗談でアップルとソニーの関係性ゆえか? みたいなことも書いた)。

そうしたら、ソニーカスタマーサービスを名乗るアカウントからいきなり、「型番はわかりますか? こちら(URL貼り付け)のリセットを試してみてください云々」という感じのリプライが飛んできた。

強調しておくが、私はそのアカウントをフォローなどしていたわけではないし、問い合わせが目的でそのアカウントにリプを送ったわけでもない。ただご飯が美味しかったとか、この本はつまらなかったとか日々のどうでもいいことをつぶやくのと同じノリで、音量バランスおかしいなーなんでだろう、と虚空に向けてつぶやいただけだ。

その虚空に向けてのつぶやきをわざわざサーチしてきて、調べれば誰でもわかるようなリセット方法(厳密には、その方法を知るためのURL)をご丁寧に教授してくださる――なんというか、ありがた迷惑というか、頼んでないから放っておいてくれと思うのは私だけだろうか。

本当に個別の問題を解決する意思があるなら、状況や条件などをしっかり聞かないと話にならない。「型番はわかりますか」とのことで、もし私が答えていればそういう方向に話が広がる可能性もあったのかもしれないが、ほかにも、製品をどこで買ってどこで使っているか、Macの型番、接続して何のソフトで何を聴いていたか、画面表示はどうなってたか、いつからどのくらいの頻度で問題が起こっていたのか……などなど、共有しなくてはならない情報はたくさんあるはずだ。それを1回140文字のやりとりでうまくできるはずがないし、個人情報に関わる事項も必然的に開示することになるから、Twitterのリプライでは不可能だ。結局、メールか電話でお問い合わせください、となるのだろう。それが必要なら最初からこちらでやっている。つまり、Twitterエゴサして突撃してくるという行為には、問題解決という本来の目的にとっては何の意味もない。

また、こうした唐突なリプライは、「些細な愚痴でさえも全部監視しているぞ」という圧力にも感じてしまう。おそらく、実際そういう側面もあるのかもしれない。たしかに、私のツイートを見た誰かが早とちりして「そうか、ソニーのヘッドフォンはアップル製品と相性が悪いのかー。じゃあ買うのやめよかな」などと思ってしまったら、顧客の可能性を一人分失うことになる。

だが、私は別にそんなふうに断定するようには書いていないし(たしかにアップルとソニーの関係性には言及したが、理解力のある人間なら冗談だとわかるというか、そんなことを真に受けないだろう)、それで勘違いする人がいるとしてもそれは私の責任ではない。それに、もっと重要な要素として、私は有名人でも公人でもなんでもなく、フォロワーも20人ちょっとしかいない。こんな「一般人の弱小アカウント」のつぶやきが決め手になって、じゃあこの会社の製品を買うのはやめようなどと考える人が出現する可能性がどれほどのものか考えてほしい。おそらく宝くじで一等を当てるよりも低いだろう。

要するに、こうしたエゴサ突撃型のカスタマーサービスは、問題解決が目的にせよ圧力をかけるのが目的にせよ、効果が薄く、意味がないのだ。それどころか、突撃された側に不快感を感じさせるだけなので、企業側にとっても消費者にとってもマイナスにしかならない。カスタマーサービスエゴサ突撃で「助かりました! ありがとう!」となる人間、おそらくほとんどいないのではないかと思う。大多数の人は、「うわ、なんかいきなりリプライきた、メンドクセ」「こんなのまで監視してるのか、怖……」という感想しか抱かないはずだ。

 

こういう無意味どころか、自分にとってもマイナスにしかならない行為がなぜまかり通っているのか、不思議でならない。

上記の例よりも、もっと愚かしく、笑ってしまうような例もあった。少し前に、これまた戯れで私はTwitterに「Amazonのほしいものリストに入れた商品が全然値下がりしないなー。もっと安くなってくれー!」というようなことを書いた。上記のソニーの例はまだ実際に製品を使用する上で問題が存在したといえばそうなのだが、こちらの例は誰が見ても、なんか戯言を言っている奴がいるな、と思うだけだろう。

それになんと、Amazonカスタマーサービスからリプライがきたのだ! 「申し訳ございません。ご期待に添えるように善処いたします」的な内容だったと思う。機械による定型文かと思ったが、それにしては出来すぎているし、末尾に担当者の名前も入っていたので、おそらく人力だろう。(ちょっと疑問に思って調べてみたのだが、別の人たちに対する返答内容からも、やはりほぼ確実に人力だろうとわかった)

一瞬、「え、それ本気で言ってるの? 私のほしいものリストの商品を値下げする権限があなたたちにあるんですか? だったら今すぐ上の人に掛け合ってもらえます? 安くなるとうれしいので」と陰険なリプライをしてやろうかと思った。やらなかったけど。

こちらの例は本当になんかもう、カスタマーサービスが何がしたかったのかまったくわからない。解決すべき問題がそもそも存在しなければ、圧力をかけるべきことでもないからだ。

わからないが、リプライを送ってきた担当者もそんなことは承知だが、もしかしたらリプライを送った件数に応じて報酬が増えるようになっていて、いわばヤケクソの点数稼ぎをしていただけかもしれない。そうだったとしても、このシステム自体が愚かであることに変わりはない。担当者には、もっと別の、虚しくならない仕事があるんじゃないですかね……と言いたくなるし、企業目線に立ったら、そんな無の行いのために人員と設備に投資するのはわずかでもやめたほうがいいよ? と言いたくなる。

 

こういうことの真の目的が何なのか、私には知るよしもないし、もしかすると私のまったく知らないところでは、多くの客に喜ばれているのかもしれない。だが、こうした「カスタマーサービス」のエゴサ突撃は、少なくとも私にとっては、無意味なこととしか思えないし、もっと言うなら、病的な異常な行為にしか思えないのだ。鍵をかけていないTwitterは公共空間だから別にエゴサするのも突撃するのも勝手だろう、公共の場で発言したお前が原因だ、という意見ももっともだ。しかし、もし同じ公共空間である駅や公園で、友達同士である製品やサービスの話をしているところに、いきなりその企業の担当者が「お困りですか?」と割って入ってきたら、普通はどう思われるだろうか? 歓迎する人などほとんどいないのではないだろうか。

 

繰り返しになるがまとめよう。私はこういうエゴサ突撃型の「カスタマーサービス」のあり方は百害あって一利なしなので即刻やめるべきだと思うが、どこかでは有益だ、役に立つという研究・観測結果が見られるのかもしれない。それはそれで興味深いので、ぜひ知りたいところだ。もしかすると、こんなことを考えているのは私のような陰険な人間だけかもしれない。そうだったらむしろおもしろいのだけど。

最近

デカい案件をもうすぐ訳了する(させなきゃいけない)大詰めの時期に本来やることじゃないのだが、いろいろ生活を見直していた。

油断するとすぐ生活が崩壊するので、ここ最近(1ヶ月ぐらい)は、1日のうちに「何をやっているのかよくわからない時間」が多すぎた。よくわからない時間のうちにグダグダと作業っぽいことと休憩っぽいことと居眠りを織り交ぜてやっているものだから、1日の労働時間が延べ12時間とかになることもあった(と思えば、実質3時間くらいしか働いていない日も)。

一昨日に一度全てをリセットし、昨日今日で完全に再構築し、最強になりました。

生活リズムを保ったほうが生産性が上がるのは当たり前なんだが、定期的にちゃんと見直さないとすぐ崩れる。ウマ娘に鋼の意志はいらないが私には要るんだと思う。

 

 

最近はウマ娘のやつをやってる

いつの間にかゴールデン・ウィークが終わっていた。

仕事と、ウマ娘のゲーム以外はほとんど何もしなかった。

育成ゲーム、結構好きなので、こりゃハマったら危ないな〜と思ってなかなかやらなかったのだけど、やってしまったら案の定みごとにハマった。

アプリをダウンロードしてから1週間ぐらい、途中忙しくて3日間ぐらい触っていなかったので、今は正味4日目ぐらいか。さっきやっと、初めて”うまぴょい”できた。課金すればすぐに強くなるんだろうけど、無課金勢にはほどよい難しさがあって飽きない。ちなみに攻略サイトなどは見てない。

 

人生が育成ゲームだったらいいな、と思ったことない? 私はあるよ。いろいろなスキルが数値化されていて自分の現状や、次にどこを伸ばせばいいかがひと目で分かり、選択肢が絞られていて、成功にせよ失敗にせよその場でフィードバックがあり、次に生かせる……リアル・ライフもそうだったらいいと思わない? まあそうじゃないから人間なわけだし、そうじゃないからこそおもしろいこともあるのだけどね……。

しかし、いわゆるビデオ・ゲームができてからももうだいぶ経つのに、今もなおそういうシステムのゲームがずっと流行っているってことは、私だけじゃなくて、人類全体の隠れた理想というか願望みたいなのがあるんじゃない? と思ったりもする。前の段落と言っていることが矛盾しているが、それが本当に実現してしまったら恐ろしい気もするけどね。まあ現にそうなる可能性は現時点では限りなくゼロに近いので、ゲームはゲームで楽しみつつ、ウマ娘(やパワプロくんやときメモの主人公)は日々成長しているのにどうして俺は……とギャーギャー騒ぎながら生きていくしかないんでしょうね。そもそも、人間や社会が日々成長する(良い状態になっていく)、という前提そのものがおかしいですが……。

 

まあそういうわけで、ウマ娘プリティーダービーというゲームはなかなかおもしろいです。ゲームのなかのサクラバクシンオーのキャラが好きなので私も翻訳界のサクラバクシンオーを目指そうかなと思いました。バクシンバクシン! やっぱりやめときます。

 

ちなみに今日(日付的には昨日)の京都新聞杯はみごとに外しました。ウマ娘のレースでは勝てるのにどうしてリアル馬は……。

明日からもまたそうやって嘆きながらやっていこうと思います。

 

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あ、こんな駄文を書いたあとにアレなんですが、ちょっとしたお知らせを。最近は『クーリエ・ジャポン』の翻訳もやらせてもらっています。最近はこういうものをやりました。

courrier.jp

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ステイホームで麻雀をして楽しかった

4月30日の日記。

 

今日は大学のときの友達とネットで麻雀をした。

大学のときに毎日ともに麻雀を打ってたメンツなので、ホーム感があって安心する。

大学のときは、本当に麻雀ばかりやっていた。授業が終わると、バイトのない日は家に帰って課題をやり、課題を終えて夕飯を食べた後に誰かの家に集まって麻雀をする。そういう生活だった。今振り返ると、もっとそのときに勉強などをしておけばよかったのでは? という気もするが、楽しかったのでいいんじゃないかな、と自分に言い聞かせている。今日は、あの頃からもう10年か、という話になり、ちょっとつらくなっ……いや、私は22歳(自称)ですので、つい最近の話でした、何でもありません(苦しい)。

麻雀は不完全情報ゲームだから楽しい。私にはチェスや将棋のような完全情報ゲームの定石を覚え込む能力も頭に叩き込む根気もないという、個人的な能力差の問題もあるが、私が不完全情報ゲームを好むのはそれだけが理由ではない。不完全情報ゲームの本質に私はむしろ惹かれている。

麻雀にだって定石というか、基本の打ち方みたいなのはあるけど、最終的な判断は相手の動き、その場の状況や運、自分のそのときの目的(たとえばこの局で何が何でもトップをとりたいのか、あるいは相手の親番を流すだけでいいのか)など、再現性のないものをもとになされる。それにも統一的な基準があるわけではなく、今どうしてそういう判断をしたのか、理由をつけてそれらしい説明を組み立てられはするが、究極的には、自分でも1から10まで完全に説明することは不可能だ。そういうものはちょっとオカルトめいていると思う人もいるかもしれないけど、私たちの実際の生き方だって、画一的な基準ではない判断の積み重ねだ。私たちの思考だってそうで、決して常に「テキトー」に意思決定されているわけでもないし、常に本能にドライブされて完全に自律性を失っているわけでもない。しかし自律的な(そうだと私たち自身が考えている)思考・判断の裏にも、完全には説明できないものがある。だからこそ、人生は何があるかわからなくて面白いのだと思う。

こじつけなんじゃないかという気が自分でもしているけど、こういう不完全情報ゲーム的なあり方は、まさに私の仕事である翻訳や、本を解釈することにも重なると思う。

当たり前だけど、翻訳、特に本の翻訳は、起点原語と目標言語が必ずしも一対一で対応していない。辞書に書いてあるのは答えではない、という有名な話は詳しく語るまでもないと思うけど、それだけではなくて、同じ本のなかで起点原語の同じ単語が複数箇所に出てきても、それが目標言語になったとき、必ず全ての箇所で同じになるわけではないということだ。(もちろん、逆に本のなかで統一しなきゃいけない局面もある)。その判断にはさまざまな要素が絡んでくる。「文脈が違うため」とか「起点原語の”読みやすさ”と目標言語の”読みやすさ”が必ずしも一致しないため」とか、いろいろそれらしい要素を具体的にあげることはできる。もちろん、それは間違いではないのだが、そこからこぼれ落ちている、具体的に言語化できない判断基準も翻訳者は自覚せずして持っているはずだ。(一流の大御所などはそうは思わないかもしれない。でも少なくとも私はそう思ってやっている)

このような領域の判断基準は、粗い言葉でまとめてしまえば「センス」というものだろうか。理論化できないので、解説のしようも伝授のしようもないのだと思う。(そして、少なくとも現在の形の機械では再現不可能なものだ。AIの判断基準は、たくさんのデータの最大公約数的なものにすぎない。そのサンプル数と計算の精度を高めていけば「文脈」を正しく読めているかに見えるヒット率は高くなるかもしれないが、そこにあるのはそもそも解釈のプロセスではない)。だけど、他の人のものを参考にしたり、他者からフィードバックをもらったり、自分で振り返ったりして、磨いていくことはできる。完全な答えはないとしても、日々そのようにして不完全な世界でのセンスを高めていきたいと、決意を新たにした。

で、何の話でしたっけ。麻雀はめっちゃ楽しいねという話でした。