木がいっぱい、葉っぱもいっぱい

些細なダメージに気づくということ

家の最寄りのスーパーが、今日行こうと思ったら閉まっており、中では何やら工事をしていた。完全に閉店してしまったのか、一時的な改装なのかはわからないが。

仕方がないので、2番目に家から近いスーパーに行かざるをえなかった。違うチェーンだが店の規模も価格帯も最寄りのスーパーとそこまで変わらない。けれども最寄りのスーパーは徒歩5分だったのに対してそこは徒歩20分くらいなので、今まではわざわざそっちに行く動機はなく、だいぶ前になかなか手に入らない銘柄のビールがその店だけで安売りになっているとかで、そのビールだけを買いに一回行ったことがあるだけだった。

そういうわけで、一度ビールを買いに行っただけのスーパーで今日はこの先一週間分の食料などを全部買わねばならなかったわけだが、これが意外と大変で、だいぶ疲れてしまった。

といっても、ただいつもとちょっと違うスーパーで買い物するだけのこと、そんなに騒ぐことか? と思うかもしれない。確かにそうだ。別に異国に行ったわけではない(私の場合は今ドイツにいるので、そもそもずっと異国なんだけど)し、スーパーごとに作法がまったく違うわけでもない。必要な商品をとって、レジでお金を払うだけだ。もう2年半ここに住んでるわけだから、場所がいつもと違っても何がどこにあるか見ればわかるし、なんなら店員に訊けばいい。実際、そんなに騒ぐことでもないのだ。別にヘトヘトになって帰ってきたというわけでもない(歩く距離はいつもより長かったが、それはまた別の話だ)。

だが、よくよく考えるといつのまにか精神的に疲れてしまっていることに気づいた、というわけである。たとえるなら、なにかデカい攻撃を受けてHPがガバっと減ったのではなく、じわじわとスリップダメージを食らっていた、という感じだ。しかも、ダメージの量自体は微々たるもので、その場では気づかない。長期にわたる蓄積を経て初めて、あれっこんなに食らってた!? となるタイプのやつだ。蓄積が大きくならない限り、意識して振り返らないと自分でもわからない。わざわざ振り返らなくてもいいことを掘り返すのはさすが私の性格の悪さといったところだが、どうしてダメージを食らったのか、意識して振り返ってみるとそれはそれで興味深い。

今日の場合は、まず、商品の並びがいつもと異なっていたということが挙げられる。いつものスーパーには入ってすぐのところに野菜売り場があり、その次に肉、魚、冷凍食品……という順番だったとしよう。今日行ったスーパーは、入ってすぐのところはお菓子売り場で、その隣にパンとシリアル類が置いてあった。野菜は一番奥、冷凍食品はピザ類と肉製品の棚が別になっている。次に、商品が微妙に違ったということもある。もちろん、売っているものの種類自体はそんなに違わない。ただ、ドイツの大手スーパーは日本以上に自社ブランド志向が強く、運営企業が違えば「まったく同じ商品」は手に入らない。たとえば、スーパーAではパック入りの肉の基本単位は500グラムだが、スーパーBは400グラム(もちろんその分、わずかに単価は安い)だったり、砂糖入り豆乳飲料の砂糖の含有量がほんのわずかに違ったり、野菜の平均的な大きさが違ったり(重さ単位なので値段はそんなに変わらない)する。本当に微妙なレベルだが、違うことは違うのである。

上でも述べたが、これはまったく重大なことではない。普通の人間なら、この程度のことには十分に対応可能だ。入ってすぐのところにお菓子売り場があるならそこでお菓子を選べば(あるいはスルーすれば)よいだけだし、奥に行けば野菜売り場はちゃんとあるのだから野菜がほしければ奥に行けばよいだけの話。パックの基本単位が違ってもそれが価格にちゃんと反映されているならよいではないか。それで足りないなら2つ買って冷凍しておけばよい。いちいちこんなことに文句をつけていたら何もできない。こんなことにも適応できないようじゃ生きていけない。その通りだ。

しかし、こうやって書き出してみるとわかるが、いつものスーパーで買い物をするときと比べて余計な脳のリソースが割かれていることもまた確かなのだ。野菜→肉→冷凍食品→シリアルという完成されたいつもの流れにおいては、意識の上ではもう何も考えなくても買い物ができる。これは憶測でしかないけど、もしMRIか何かでいつもの買い物のときの脳の動きを可視化してみたら、ほとんど動いてないんじゃないかと思う。それが、新しく行ってみたスーパーでは、まずお菓子とコーンフレークが置いてある。自分の意識の流れを分析して書き起こしてみると以下のようになる。「おや、お菓子売り場がこんなところにあるのか。そうだ、おやつの板チョコが切れてたから買わないとね。あと朝食のシリアルも。あれっ、このスーパーはチョコ味のシリアルに入ってるチョコの形が違うっぽいな。へ〜まあ味は変わらんだろ。さて次は、野菜だが……一番奥か」

普段だったら無の境地でできる買い物と比較して、序盤の段階だけでもこれだけの”余計な”思考が行われている! 

繰り返しになるが、これは本来なら殊更に”余計”だと騒ぐようなものではない。ほとんど無意識で行われているものでもあり、大声でこうした独り言を言っているわけでもないし、動作に表れているわけでもない。外見では何も変わらないだろうし、知らない人が見たら、私がこのスーパーに来たのは今日で2回目(日常の買い物としては初めて)ということなんて、わざわざ言わなければわからないだろう。現に、何のトラブルもなく私は買い物を終えて家に帰り、こうして怪文書をしたためている。適応できているのである。

それでも、ほんのわずかではあるが、余計なリソースを使いエネルギーを消費している。これもまた事実だ。(この程度のことを”余計”と言って避けていたらボケてしまうのでは? と思う方のために申し添えておこう。私は毎日仕事で未知の文章に触れるし、毎日のように勉強したり読書したりしているし、最近はこうやって長文の怪文書をまじめに書くなどしている。むしろそういう自分が重要だと思うことに最もよいパフォーマンスで集中したいがために、義務的な買い物のようなはっきり言って「しなければならないがどうでもいいこと」にはリソースを割きたくないのだ)

今日の出来事をこうして振り返ってみたとき、世間の人が(おそらく私も)抱えるいわゆる「コロナ疲れ」というのも、この手の些細なダメージの蓄積なのではないか、と思えてきた。もちろん、仕事が減ったりなくなったりしてしまい、生活に困窮するようになってしまった人もいるし、医療従事者など、自分を捨てて最前線に立たねばならない状況になってしまった人もおり、そういう人たちにとってはまったく些細なダメージではないのだが、それは「コロナ疲れ」というより「実害」なので、まったく異なる次元だと考えていいだろう(次元が違うのでどっちが苦しいなどという比較も不可能だ)。私がここで言っているのはそのような人たちではなく、「生活がそこまで根本的に変わったわけではないのになぜかストレスが溜まったり疲れたりしている人」のことだ。必要な装備さえあればリモートワークはできる。飲食店がある時刻で閉まってしまうのなら、時間を早めるか、テイクアウトにするか、宅配サービスを使うかわからないが、とにかく別の方法で食事にはありつける。そんなに親しくもなくて事務的な話をするだけの人であればわざわざ顔を合わせなくてもオンラインで要件を済ませられる。親しい人同士であってもリモート飲み会のようなことができる。家にいて暇な時間が増えた人は家でできる新しい気晴らしや趣味をいくらでも見つけられる。実際にみんなそのように、多少の我慢や工夫をして対応できている。それはもちろんよいことだし、そうしなければ生きていけない。けれどもその「多少の我慢や工夫」の裏には、私が今日慣れてないスーパーで感じたようなダメージがあるのではないか。それはひとつひとつは見えないほど小さいが、自分でも気づかないうちにスリップダメージ式に蓄積していって、気づいたときには塵が積もって山となっている。蓄積の過程が見えておらず、いきなり堆積の結果を認識するものだから、なんかよく原因はわからないけど心身の調子を崩してしまう、ということになるのではないか。

じゃあどうすればよいのかと言われても、私にはわからないけれど。ひとりひとり予防法や解決法は違うのかもしれないし、そもそもこういう状況にあってはどうしようもないのかもしれない。ただ、塵が積もって山となってから初めてその結果だけを認識して圧倒されてしまうより、塵が積もっていくプロセスの初期の段階から、プロセスそのものやその原因に気づいていたほうがよいのではないか、という気がする。ゴミ屋敷になってしまってからでは一人で片づけることはできないが、毎日掃除していれば一人でも部屋をきれいに保てるのと同じで、わずかな塵の段階なら簡単に解決法が見つかるかもしれないし、それ以上ダメージ蓄積しないようにする何らかの予防策をとれるかもしれない。どんな状況でも、「多少の我慢や工夫」が常に必要なのは間違いない。ただその裏では余計な精神的リソースを使い、わずかでもダメージを食らっている可能性があるということを、認識しておくだけでも違うのではないだろうか。